ハンコと権力の関係(労経ファイル2018.9月号寄稿)

社会揺るがす不祥事が多発

ここ数年、日本社会を揺るがすような不祥事が続いています。政治の世界では、財務省による公文書が改ざんされるという前代未聞の不祥事が起こっています。さすがに改ざんできない防衛省では、文書を破棄したと言っている始末です。経済界では、データ改ざん問題です。規制をクリアしようと不正なデータを使用して、市場だけでなく、顧客を欺いた問題です。それも世間で周知されている名門企業ばかりです。

念のため、ネットで最近の不祥事を調べてみました。・旭化成建材による杭打ち工事のデータ改ざん、・三菱自動車による燃費データの詐称、・東芝の長期に及ぶ不適切会計、・東洋ゴムによる試験データ偽装、・商工中金の書類改ざん、・スバルの無資格検査員による検査及び排ガスと燃費の検査データ改ざん、・神戸製鋼所の製品検査データ改ざん、・日産自動車による無資格検査員の最終検査、・宇部興産による規格外製品納品、・三菱マテリアルグループ会社による品質不正などなど、なんと多いことかここには書き切れません。

ハンコ社会の日本

日本は、ハンコ社会です。組織を動かすためには、いろんな手続きにおいて、各担当者や管理者のハンコがなければ動きません。組織の不祥事には、テレビで謝罪している組織のトップをはじめ、文章あるいはデータ資料の作成に当たり、担当者を始め、多くの人が関係しています。本来ハンコを押すということは、個人だけでなく、組織の不正を抑制する上で、機能を発揮する役割を持たせています。

一方、ハンコの社会では、多くの人が関与することから責任の所在が曖昧だとも言われています。日本は、ハンコを押すことに他の国以上に意味を持たせて来ました。

日本におけるハンコの歴史を見てみますと、ハンコの起源である印章制度は、大化の改新の頃、公文書に押されたのが始まりだそうです。現存する最古の印章といわれている「漢委奴国王」という金印は有名です。印鑑は、まず、政府や地方の支配者の公の印として使われ始め、平安・鎌倉時代になって、個人の印として印鑑を押す習慣が定着したようです。

明治になって、公の印はすべて、法律の規定に従って、管理・使用されることになり、個人の印は印鑑登録制度が導入され現在に至っています。日本では、実印、銀行印、認印など用途に応じて使い分けています。ハンコを押すことは、契約が成立したこととなり、債券・債務の義務が生じるほど責任の重い行為なのです。つまり、ハンコを押すという行為には、日本の長いハンコの歴史の中で獲得してきた個人の権利と義務の象徴と言えます。

しかし、組織の不祥事では、組織のトップからの圧力がかかるとハンコの機能がいとも簡単に損なわれるのが現状の社会のようです。これらに関わったそれぞれの組織の担当者は、一体どんな気持ちでハンコを押したのでしょうか。心情を考えるととても大きな精神的な葛藤があったと想像されます。

「一人前の社会人」を自覚

筆者自身、30数年前に初めて社会人になって自分のハンコを押した時のことは忘れられません。スーツ姿にネクタイをつけた感覚と同じように、仕事上で自分のハンコを持って、それを押すという行為に気持ちが引き締まり、一人前の社会人になったという自覚を実感させてくれたことを覚えています。時の上司から、ハンコが薄れていたり、曲がっていたり、真ん中に押されていなかったりすると注意されたことも記憶しています。

また、非常に難易度が高い仕事の場合では、なかなか上司からハンコをもらうことができず、苦労の末、何とか上司のハンコをもらい、承認された時には、喜びや達成感を味わったものでした。このように仕事上でハンコを押すことは、押した誰もがその仕事に責任を持って関わったことを示しています。

ハンコの権利回復を

2000年代に入り、企業のコンプライアンスやCSRが重要視しました。企業は、利益の追求だけでなく、ステークホルダーに対して責任を持たねば企業の存続はないとしました。

しかし、目まぐるしく速いスピードで流れている経済情勢下において、日本社会は、余裕をなくし、不安感に包まれています。そして、組織が持つ圧倒的な権力は、いとも簡単に企業の経営理念も従業員一人ひとりの権利と義務も捻じ曲げてしまうのだと感じています。

筆者は、組織の利益や大義名分さえ整えば、自己保身のため不正に手を染めてしまう弱さの克服が今の日本社会に求められているのだと思います。従業員が胸を張ってハンコを押せる安定した日本社会を取り戻しましょう。